僕は今、叔父さんの誘いに甘える形で、伊奈月村に遊びに来ています。
のどかで、緑がとても豊かなところです。
凛と張りつめたような、それでいて爽やかな空気が眩しくて。
山あいの豊かな森林がもたらす磨かれた水は、心も身体も綺麗に潤してくれます。
時間も、どこかゆったり流れているように感じられます。
 
そしてなにより!
星が、とてもよく見えるんです。
ここへ来て良かったという実感に、胸の奥まで喜びで満たされるような想いです。
今までどこで見た夜空よりも高く突き抜けて、透きとおっていて。
まるで背中に羽でも生えたように、ついつい足取りも軽くなります。
 
でも……。
 
「う〜ん……」
 
そのとき、僕は困っていました。
他の人から見れば、なんてことのない悩みかもしれませんけれど。
 
「……ここは…………どこでしょう?」
 
…………………………。
 
今日は七夕。
夏の星座の瞬きに誘われるまま、星空の下へと飛び出した僕。
 
視界を覆い尽くす夜の帳には、揺れる輝きが散りばめられて。
僕は時間を忘れて、ただ星々の行く末を追いかけました。
 
はた、と気がつくと。
 
「叔父さんの家は……どちらでしょうか……?」
 
薄闇の中でも、小高い丘のふもとだということは、かろうじてわかります。
しかし。
僕が今まで歩いてきたはずの道が……わかりません。
 
(…………困りました……)
 
大きな森は、夏風にざわめき。
天の河は、今にも零れ落ちそうな星灯りに満たされています。
 
不思議と。
淋しさや不安のようなものは、感じませんでした。
きっと、ぼんやり青く霞んだお月さまが、微笑んでくれていたからかもしれません。
それは、見知らぬ土地で友人と出会う偶然にも似ていて。
どこまでも、素敵な夜に感じられました。
 
「あ……」
 
どれくらいの間、立ちつくしていたんでしょう。
途方に暮れていた視界の隅を横切る、小柄な人影に気づきました。
 
そのとき、僕が受けた衝撃は、とても言葉では言い表せません。
いっそ雷に打たれでもしたなら、このように胸弾むのでしょうか。
気付けば。
僕は、その人の残り香に誘われるように、影さやかな名月の佇む丘へと足を向けていました。
 
…………………………。
 
「何をされているんですか?」
 
なけなしの勇気を振り絞って、僕はその方に声をかけます。
 
「こんな所でお昼寝……というわけではありませんよね。もう夜半ですし」
 
『だ、誰……ですか?』
 
「あぁ、すみません。驚かせてしまいましたね」
 
驚かせてしまったら、申し訳ありません。
そんな顔をさせてしまうつもりはないんです。
ただ……貴方の姿に、曳かれてしまって。
 
「僕、ちょっと散歩をしていたんですけど、どうやら道に迷ってしまったみたいで……」
 
「すみません。この村の麓にはどうやったら行けますか?」
 
蒼い月灯りの元、肩まで掛かった髪が風にきらきらと揺れています。
円らで真っ直ぐな瞳が、僕のなにもかもを見透かしてしまいそうで。
帰り道を尋ねている間も。
僕の魂は、見えない何かに縛り付けられたかのように。
貴方から、一時も目を離すことができませんでした。
 
『また……会えますか?』
 
貴方の問いかけに、僕は強い確信を持って答えました。
 
「また、いつかお会い出来る日を、楽しみに」
 
刹那、初夏の風が強く吹き抜けたことを、忘れることができません。
 
今でも。
そっと目を閉じるだけで、あのときの貴方の面影が蘇ります。
とても、鮮やかに。
 
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
「隆志、いるのか?」
 
小さなノックの音で、我に返ります。
 
「はい。なんでしょう?」
 
「うむ、帰っていたか。……邪魔するぞ」
 
どうしてでしょう。
叔父さんは僕の顔を覗きこんで、小さなため息をつきました。
 
「?」
 
「お前の嗜好は知っている。星が見たいからここに来たのだろう。だから、出かけるなとは言わん」
 
「だが、こんな時間だ。外も暗いし、なによりお前はこの村の地理に明るくない。家の者に一言くらいあるべきだとは思わんか?」
 
「あ……」
 
申し訳なさで胸がいっぱいになりました。
自分の楽しみばかり追いかけて、心配してくれる人の存在を忘れてしまっていたことに。
現に僕は……帰り道が分からなくなってしまったんですから。
ここに無事戻ってくることができたのも、偶然丘の上で出会えたあの人のおかげです。
 
「すみません……叔父さん」
 
「うむ。気をつけてくれれば、それでいい。せっかく、遊びに来ているのだからな、無粋なことを言うのはこれくらいにしておこう」
 
「あ、あの……」
 
「ん?」
 
「その……、この村に僕くらいの年頃の人って、どれくらいいるんですか?」
 
「隆志と同じ年頃か……そうだな、鳴滝の家、明戸の家と……ふむ、3人くらいか」
 
「その3人とも、同じ学校に通っている。しかし、その学校も来年で廃校になる」
 
「この村も年々若い者が少なくなっていく。淋しいことだ」
 「……その中に……」
 
束の間、あの憂いを帯びた横顔が脳裏をよぎります。
 
「女の子は……いるんですか?」
 
「? 何故、そのようなことを訊ねる?」
 
叔父さんは首をかしげます。
無理もありません。自分でも、不思議だと思います。
どうして、こんなにもあの人の面影が浮かぶのか。
僕の心を捉えて離さないのか。
一目、影を思い返しただけでこの胸が高鳴る。
自分でも分からないくらいなんですから……。
 
「いる……んでしょうか?」
 
「ふむ……」
 
「………………」
 
叔父さんの目には、逡巡が色濃く浮かんでいました。
僕は、その瞳を真っ直ぐ、見返します。
 
どれくらい、そうしていたんでしょう。
叔父さんは、ゆっくりと重い口を開きます。
 
「ちょうど、お前と同じくらいの年頃の娘さんが一人いるな」
 
「この村に居る若者はそう多くない。おそらく、あの子のことだろう」
 
「そう……ですか」
 
ほっと胸をなで下ろします。
そうです。
想い出は美しすぎて、夢でも見たのではないかとさえ思えてしまいましたから。
 
「その子が、どうかしたのか?」
 
「はい……。困っているところを、助けてもらったものですから」
 
「そうか……。あまり、人に迷惑をかけぬように」
 
「はい……すみません」
 
「特に、お前は…………いや、何度も同じことを言うものではないな」
 
「はい……。ありがとうございます」
 
心配してくれる気持ちが、痛いほど伝わってきます。
そもそも、僕のわがままを受け入れる形で、叔父さんはこの村に招いてくれたのです。
なにもかも、甘えてばかりいられません。
本当に、お世話になっています。
感謝してもしたりないくらいに。
 
ですから……。
『どうか僕を、この村に……』
などと、これ以上の無理は……言えません。
 
「わかってくれればそれでいい。……今日はもう遅い、早く床につきなさい」
 
「…………はい。叔父さん、おやすみなさい」
 
「あぁ……。おやすみ」
 
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
床について、ゆっくりと目を閉じます。
暗闇は、苦手です。
この年になってもなんて、恥ずかしいですけれど。
特にこの村の夜は、音を吸い込むお化けの存在を信じたくなるほど、静かで。
深く深く、濃い闇に包まれています。
苦手な人に出会ってしまった後のように、少しだけ落ち込みます。
 
でも、僕は、こんな時に幸せへたどり着く方法を知っています。
それはもう、子供の頃から、何度も何度も繰り返したこと。
そっと、深呼吸をひとつして。
意識を、身体の軛から解放するイメージで。
天井の向こう側へと、想像の翼をゆっくりと羽ばたかせます。
 
満天に揺らめく星灯り。
てっぺんに、お月さまがまあるく浮かんでいて。
蒼くさざめく丘の上に、あの人がいる。
空想の中の僕は、とても身が軽くて。
目的地は、もうすぐそこ。
一足で、あの人の元へと跳んでいけるんです。
 
僕たちはとりとめのない会話をします。
この星合の夜に逢瀬を重ねる、織姫と彦星のように。
僕はあの人の横顔に目を奪われるだけで、笑わせるような話のひとつもできなくて。
まるで子供のように、動悸を抑えられなくて。
 
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
私は、夢を見た。
 
さっき出会った人のことが、忘れられない所為だろうか。
なんでも見透かしたような瞳で。
だけど、とても穏やかな瞳で。
 
あの丘に、私たちは並んで座っていた。
見慣れたはずの星空が、とても眩しい。
さっきから、自分の心臓が口から飛び出しそうなくらいに高鳴っているのがわかる。
隣の人に聞こえていないかどうか、心配になるくらい。
初めて会っただけの人に、どうしてここまで惹かれるのかがわからない。
生まれてはじめての経験。
もしかしたら、一目惚れというものなのかもしれないけれど。
私にはわからない。
まだ、わからない。
 
漠然と、思い出す。
子供の頃、お母さんから聞いた話。
運命の人とは、小指と小指が見えない赤い糸で結ばれているんだよという話を。
見えないのに、赤い糸だなんておかしいと今なら思うけど。
それから、はじめて会う人の小指を眺める癖がついた。
 
初恋の記憶はない。
ずっと一緒の幼なじみなら二人。
 
そう。
私たち三人は、いつも一緒だった。
 
でも、気付いてる。
いつまでも一緒にはいられない。
このままじゃいられないんだ。
二人と過ごす時間が楽しければ楽しいほど、やがて訪れるであろう『別れ』が重たくのしかかる。
真面目に考えれば考えるほど、息が詰まりそうになる。
 
だけど、こんなこと、紳や誠悟には言えない。
特に、紳には。
きっと紳は、ひとしきり笑った後、真面目な顔になる。
きっと誠悟は、いつもの静かな目で、うなずくだけ。
 
こんなに淋しく感じてしまうのは、私だけなんだろうか?
こういう気持ちを、女々しいなんていうのかな?
そうじゃない、と思う。
紳も誠悟も、はっきりと口に出したりしないだけ。
だから、今を。
限りある時間を、精一杯楽しもうとしてるんだ。
 
いつからか、私は丘に昇るようになった。
私だけの秘密の場所。落ち着く場所。
心を塞ぐような天井もない。
星空の小さく揺れる輝きは不思議。
都合良く悩みが解消したりしないけれど。
じっと眺めているだけで、子供の頃、お母さんの腕の中にいたときみたいな気持ちになれる。
 
今日は七夕で。
いつもと同じ光景にゆっくりとした時間を過ごすだけのはずだったのに……。
 
そこで私は、あの人と出逢ってしまった。
 
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
「はじめまして……」
 
夢の中の私は少し臆病だ。
自分でもおかしいくらい。
 
「初めまして」
 
夢の中の僕はいつもより大胆です。
自分でも可笑しいくらいです。
貴方の顔を見ると、不思議と力が湧いてくるんです。
昂ぶる胸の内を悟られぬよう、言葉短く。
ただ、自然と浮かんでくる微笑みを、こらえることができません。
 
「あ、あの。どうしてここに?」
 
「はい。あの星と……貴方の影に誘われて」
 
「………………」
 
口ごもって俯くその姿が、とても愛らしく感じられます。
僕の言葉が、少しでも貴方の心にさざ波を起こすことができるなら、これに勝る喜びはありません。
そんな表情が見たくて、僕は何かに背中を押されたように、貴方に話しかけるのかもしれません。
僕は未だ、この感情に名前をつけることはできません。
こんな気持ち、ご迷惑でなければいいのですが……。
 
「道は、分かりましたか?」
 
「はい。貴方のおかげです。本当に、ありがとうございました」
 
「いえいえ、お役に立てたのならなによりです」
 
いろんな声があります。
それを聞いて思います。
 
申し訳ない。
すみません。
ありがとうございます。
 
くすぐったいような誉め言葉も。
恥じ入りたくなるような叱咤の言葉も。
 
昔に比べれば、個人の声を発しやすい時代になりました。
それだけに、あまりいい加減なことをいいたくはありません。
 
人間なので、間違いも勘違いも過ちも犯します。
時間は誰にとっても有限で。
運命、という言葉を、僕はこの時まで信じていませんでした。
でも、今ならはっきりと言えます。
これは、運命なんだと。
 
何故なら、運命という言葉は確かにこの世に存在していて。
それは、運命に出会ったことのある人にしか、使えない。
知らないものを否定するのは簡単です。
信じることの方が、ずっと難しい。
 
どれだけたくさんの人に笑われても構いません。
貴方にだけ、この気持ちを伝えることができるなら。
 
一目惚れはあります。
まるで何かに導かれるように、貴方に魅入られてしまっている。
貴方を知りたい。
そして、こんな気持ちが少しだけ怖い。
貴方以外、他になにもいらなくなってしまいそうで。
でも、ずっと、こんな優しい気持ちでいられるのなら。
僕は貴方の側に。
わずかでもいい。小さくてもいい。
居場所が、欲しいんです。
 
とてもささやかで、とても欲深い、この僕の願い。
 
──流れ星に願いをかければ
……叶うと、信じていますか?
 
朝、目を覚ましてしまえば。
この夢は終わる。
この甘い夢は、引き裂かれてしまう。
 
だけど、僕はこの灯火を消しません。
必ず、もう一度、貴方に──。
 
次は、証明する番です。
だってこれは、運命なのですから。
 
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
私は、久しぶりに夢を見た。
どうして、こんなに忘れられないんだろう。
たった一度、夜の丘で会っただけの人のことを。
 
ぎゅっと握りしめる。
どこにつながっているのかわからないけれど。
強く引かれたような気がして。
 
あの人の微笑みを思い出す。
 
『また、いつかお会い出来る日を、楽しみに』
 
左手の小指が。
微かに熱くうずいてた。
 
the begins to...