いつも通りの朝。
いつも通りの日々。
けれど、その日はいつもと少しだけ違っていた。
 
 
 
足跡
 
 
 
眼前でちらつく白。
降り積もるそれは、地面の色をゆっくりと己と同じ色に染め上げていく。
雪だ。
雪が降っている。
 
ここでは、雪はそれほど珍しくはない。
こんな芯から冷えるような日には決まって雪が降る。
 
雪は嫌いでも好きでもない。
 
雪で思い出すことなんて特になく、ただ傘を差すのが面倒だなとか。
雪が降り止んでしばらくした後、溶けた雪が土と混じったり、地面が凍ったりするのが少し億劫だなとか。
そんなことを思うばかりで、大した思い入れがあるわけじゃない。
 
 
ただ、中心から円を描くように降る雪は綺麗だとは思っていた。
 
 
空を見上げる。
 
灰色の空。
 
落ちる白。
 
 
さしていた傘を閉じる。
しばらく、こぼれ落ちていく雪の様子を眺めていた。
 
 
 
小さな一片が、髪に、肩に触れ、じんわりと消えていった。
 
 
 
すう、と深く息をつき、再び傘を開こうとした時だった。
すっと、差し出された傘。
白に浮かぶ、薄紅。
傘の持ち主は、幼なじみの彼女だった。
 
 
「おはよう」
 
 
決まり切った挨拶を交わす。
今日は寒いね、彼女がいうと白い息が空にのぼった。
 
彼女の肩に、白い雪の一片が舞い落ちる。
その様子に、俺は差し出された傘を彼女へと押し戻す。
 
「俺はいいから」
 
ふと、彼女の視線が下へと移る。
彼女は、俺の持っている傘を見ると、何故それを使わないのかと聞いた。
 
「特に意味はないよ」
 
そう答えると、彼女は不思議そうに小首を傾げた。
どうやら俺の答えが気に入らないらしい。
 
「……ほら、行こう。遅刻するよ?」
 
手を引き、歩き出す。
俺の傘は閉じたままだ。
彼女は、少し慌てながらもしっかりと俺の隣に並んだ。
手袋をしていない手は、俺よりもひんやり冷たかった。
 
 
どうせなら、このままずっと……せめて彼女の手が温まるまでは繋いでいたかったけれど。
自然に繋いだ手は解けていった。
 
 
彼女が隣にいる。
肩が触れ合うくらいに。
 
 
歩きながら、彼女はなおも俺に自分の傘を差しだそうとしていた。
小さい体を精一杯伸ばしながら。
 
別に良いのにと思いながらも、俺の為にそこまでしてくれることが嬉しかった。
けれど、それで彼女が風邪でもひいたら大変だ。
 
「ちょっと、良い?」
 
俺は、彼女の手から傘を奪う。
そして、そのままそれを彼女の方へと向けた。
 
驚いた顔。
すぐに上目遣いに俺を見つめる。
俺に抗議があるみたいだ。
 
けれど、傘の所有権は既に彼女から俺に移っている。
しばらく傘を返す気にはならない。
 
彼女は俺から傘を取り戻そうと、背を伸ばす。
俺は彼女に届かないように、天へと腕を伸ばす。
あと数センチというところで触れることが出来ない。
 
 
彼女の手が空を切る。
 
 
その時だった。
 
 
バランスを崩したのか、ぐらりと彼女の体が揺れた。
すかさず手を伸ばし支えようとすると、彼女が俺の胸に倒れ込んだ。
 
華奢な体。
細い肩。
俺の腕の中で、彼女は目を大きく瞬かせる。
 
「ごめん」
 
そういって、彼女の肩を抱き、自分から一刻も早くと引き離す。
 
ありがとうという言葉に視線が合わせられない。
 
早く。
 
早く。
 
このはやる鼓動を沈めなければ。
 
「……本当に、ごめん。ちょっと子供っぽかったよね」
 
そういって、彼女に傘を返すと、自分の傘を開いた。
 
真白い景色に並ぶ、薄紅と黒。
 
「行こう」
 
そういって、ふいと彼女から顔を背ける。
 
 
……不審に思われただろうか?
 
 
構わずに歩くと、彼女が横に並ぶ。
傘をさした分だけ、彼女との距離がさっきよりも遠くなっている。
 
 
ふう、とため息が白になり空へ昇る。
 
 
ふと、自分の手を見た。
彼女に触れた手が熱い。
 
あの時腕に抱いた彼女の体は、自分が思ってる以上に華奢で、これ以上触れたら壊してしまうんじゃないかと思った。
 
 
彼女を見る。
頭一個分だけ低い彼女の姿は傘に隠れて、よく見えない。
 
 
いつから、俺と彼女の間にはこんなに差が出来てしまったのだろう。
小さな頃は、背も、手のひらの大きさだって変わらなかったはずなのに。
 
気付くと、彼女は俺を見上げるようになって。
俺は、彼女を見下ろすようになって。
 
そして、気が付けばこの目で姿を追っていた。
 
 
 
あの時……。
あの時、彼女が腕の中にいた。
 
そのまま抱きしめられたらと今更に思う。
 
 
 
だけど、そんなこと出来るはずがない。
彼女にとって、俺はただの幼なじみだ。
きっと、この思いを伝えてしまえば戸惑わせてしまう。
それは、今の関係が終わってしまうことだ。
 
 
変わりたくない。
 
出来れば、ずっとこのままでいたい。
 
 
だけど、いつまでこんなことが続くんだろう。
時は流れ、いつの間にか背も体も大きくなった。
今はこうしていられるけれど、次の冬はどうかは分からない。
 
 
この思いもいつかは終わってしまう日が来るのだろうか。
 
 
この思いに終わりなんてあるのだろうか。
 
 
俺は、いつまで彼女の側にいられる?
 
 
白い空を仰ぐ。
心に幾度問いかけたとしても、答えが返ってくるはずもない。
 
 
 
気付くと、二人の間から会話はなくなっていた。
 
 
 
 
雪の音が聞こえる。
 
しんしんと雪が降る音。
 
雪を踏みしめる音。
 
傘に落ちる雪の音。
 
 
 
 
この雪もしばらくは、このまま止みそうにない。
 
 
 
 
どさっ
 
 
 
 
突然聞こえた音に、驚いて立ち止まる。
隣を見ると、彼女の片足が雪に埋もれていた。
 
片腕を持って引っ張り上げる。
 
彼女は照れくさそうに言った。
どうやら、誰も歩いていない真っ新な雪道を歩いているうちに、雪で隠れた側溝にはまってしまったらしい。
 
 
ふっと笑ってしまう。
こういうところはあの頃と今も変わらないな。
何だか少し安心する。
 
 
「それ分かるよ。確かに、真っ白な雪道って足跡つけたくなるよね」
 
 
俺の言葉に、彼女は「意外だ」だと笑う。
ああ、どうしてだろう。
その姿に、どうしようもなく愛しさを感じる。
 
 
「手……やっぱり危ないし、繋いで歩こう」
 
 
そういって手を差し出すと、二人の手が重なり合った。
 
 
 
振り返る。
今まで、歩いてきた足跡が残っていた。
 
 
最初は同じ大きさだった。
けれど、時が経つうちにその差はどんどん開いていった。
 
 
 
雪に残された二つの足跡。
一つは大きな足跡。
一つは小さな足跡。
 
 
 
ぼんやりと眺めていた俺は、ふとあることに気が付いた。
小さな足跡は、大きな足跡にあわせるように半歩多く歩いていることを。
 
 
 
照らされた白に、思わず瞳を伏せた。
 
 
 
どうしたの? と、あどけなく笑う彼女に、俺は笑みを返す。
 
 
「……何でもないよ」
 
 
そして、ゆっくりと足を動かした。
君の歩幅に合わせて歩こう。